2013年2月25日月曜日

2013.02.23 黒崎政男 『今を生きるための哲学的思考』


書名 今を生きるための哲学的思考
著者 黒崎政男
発行所 日本実業出版社
発行年月日 2012.10.10
価格(税別) 1,400円

● 副題は「想定外の世界で本質を見抜く11の講義」。
 本書の問題意識は,東日本大震災の津波と原発事故。あの大きな被害を「想定外」だったとする東電に対して,世論は反発したし,現に起きたのだから今後はこれを「想定外」とすることは許されないと,政治家や識者が意見を述べていた。
 しかし,ああいう千年に一度という災害を想定の内に組み込むことができるのか。

● 哲学の入門書として,これほどわかりやすい本を読んだ記憶がない。IT化がぼくらに及ぼす影響についてもわかりやすくまとめてくれている。
 わかりやすいと面白いはほとんどイコールだから,つまり本書は面白い。

● 以下,多すぎる転載。
 立場を超えて一つの行為の意味を語ることができない(中略)。立場とあわせてでしか語ることができない(p14)
 人々は同じ場所にいながら,まったく別の世界を生きている。場所や時間の同時性が,人の間の結びつきを意味しなくなっている。同じところにいても,まったく共通の話題がない,そんな事態がどんどん進んでいます。デジタル時代はこの状況を徹底化するわけです。(p91)
 昔だったら,人が何かを訴えるとき,ビラを配ったりしていたわけですけど,それは握りつぶされたり,影響範囲が限られたりしていた。それが今では,もう逆転です。大企業であれ,一つの投書や人々の意見のほうが,もはや強いということがありうる時代に変わってしまった。そういう意味で,少数の人物が多数の一般大衆を啓蒙したり,教育したりという非対称的な構造が,完全に崩れた(p93)
 私の感じで言うと,ちょうど20年くらい前(1980年代),テレビが「えらい人」をおちょくりはじめていった。それまでは学者先生のほうがアナウンサーよりえらかったけど,「え? おかしいよ」みたいなことをアナウンサーやキャスターが平気で言うようになって,上下関係をどんどんどんどん,掘り崩していった。 それからはあらゆるものが暴かれていって,「世の中には立派な人はいないのかもしれない」とか,「立派になっている,ということは,裏があるんだな」という感覚を持ちはじめた。(p97)
 かつては,権力者になるということは,自分は下々には知られないまま,自分が下々を知るという構造だったのが,今は下々からすべて知られるような構造になってしまった。「あの人,こんなことやった」ということがすぐわかってしまう構造になっているために,安泰ではなくなった。権力者が自分の情報を制御できなくなった。情報が全部流れてしまっているということだと,私は思っています。(p99)
 「ポスト・モダンの時代が来れば,人間はもっと自由になれる」という話もありましたが,自由というのは,もともとモダンの中の概念なのであり,ポスト・モダンになれば,自由という発想自体が消えている可能性があります。 自由とか個人というものは,あるパラダイムの中で初めて成立するような概念なのだから,今,起こっている変化がその枠組み自体を崩すような変化であるとすれば,かつて存在していた自由や個人というものは,新しいパラダイムの中ではそもそも意味を持たない可能性がある。(p103)
 私は人生長いので,本も何冊か書いている。いつ出したか,どんな本だったか,という正確な情報を忘れてしまったときはアマゾンに入る。自分の名前を入れると,「あ,おれはこんな仕事をしてたんだ」と知る。 だから,自分はどこにいるのか,と考えると,ネット上の中にいる自分というか,ネット上の自分というのが正確な自分だったりするかもしれない。そういったとき,私の心の内は私しか知らない,というあの感じは,ほとんどほとんど崩壊しはじめている(p112)
 現代の最先端の工学者たちの試みを見ますと,20世紀の科学とはまったく違う側面から行われはじめている,ということがわかります。つまりそれは「人はものである」,という発想です。つまり,心の動きや意識は,すべて,脳という物質の変化に還元されるのだ,と考えることです。(p115)
 国内初となるコピペ判定ソフトを開発した金沢工業大学の杉光一成教授が,コピー&ペーストは,簡単に技術なしで,完成された文章を自分が書いたような錯覚に陥り“麻薬”のように常習性がついてしまう,ということを述べているのですが,麻薬であるコピペと,そうでない世界がくっきり分かれているような発想ですね。善と悪がくっきりしているという前提の下に立っているけど,そもそも私達の存在ってコピペなのかもしれないという発想が,ここには欠けている気がします。(p122)
 著者性,私性っていうのは,大昔からあったわけではないんですね。あるシステムの構造の中で,個人名を冠するという制度が成立した。つまり,グーテンベルクの時代に,ようやく書いたものを多くの人に届けることができるようになって,少数の著者と多数の読者という構図が生まれた。そこで,初めて「著者」が出てきたわけです。 (中略)そうすると,もしかすると,今のインターネット時代の匿名性,誰が書いたんだかわからないし,私のと言ってもいいし,誰のと言ってもいいという状況がありますが,もしかしたら文化のあり方としてはそっちのほうがノーマルで,個人名がつくというのは逆にある特殊な時代だったんじゃないかという,こういう発想もできるわけです。(p126)
 文化の根本は〈模倣〉なわけです。真似をしてるうちに,自分のものになる。だから文化は基本的に,コピペとは言わないけど,言葉をちょっと柔らかくすれば,模倣なわけですよ。(p128)
 従来の図書館型では,検索することが死ぬほど大変なことだった。たとえば蔵書を10万冊持っていたとして,どこに何が書いてあるかを覚えているのはほとんど不可能ですよね。書籍の数は少ないと役に立たないが,多過ぎると,わけがわからなくなる。紙の情報には,そういう不便さがありました。でも,デジタルの世界では,グーグルなどの新しい検索方法によって,きわめて有効に情報を活用できるようになった。 ということは,何か調べなければならないテーマについてまったく何も知らなくても,ネットを検索すれば,情報を取ってこれる。(p140)
 従来は,たとえば新聞でものを書くときに,一番上の大きな総評をやっている人と,小さな意見を書いている人とでは,明らかにその権威が違うという構造がはっきりしていたわけですけれど,ネット上っていうのは,非常に不思議で,すべての意見は平等というか,すべてフラット化するわけですよね。どんな人間だろうと,一人の発言に過ぎない発言であるという形で扱われる。だから,一般の人でも「面白いな」と思われれば人気が出るし,有名人でも「意外と中身はない人なんですね」といったこともある。(p143)
 昔は,一方に大学を中心とする知的な共同体を構成している人がいて,他方にマスメディアで大衆に対して何かを語るジャーナリズム,という,この二つがうまく作用していたのだと思いますが,1990年以降,もうマスメディアは,言っても言わなくても,まったく同じだろうっていうような,ほぼ紋切り型の非常に決まりきった批判しかできない。じゃあ,一方の大学アカデミズムの知識人や文化人達はイキイキしているかというと,そうでもなくて,(中略)閉じ籠もった状況になっている(p143)
 かつて「学会」と呼ばれるものは,たとえばカメラ同好会とか,万年筆趣味集団とかいうものと比べて,もう圧倒的に発言力があるし,比べること自体,無意味なくらい別のものだったんだけれども,今はもう,なんとなく同じように感じられるような雰囲気になってきている。(p144)
 たとえば,デパートで高級な化粧品を見るだけ見て,買うのは安売り店で半額で,ということが,もう多くの人の日常生活になっています。(中略) デパートみたいに大きな敷地と多くの人員を割いて,定価で売るために様々な広告費を掛けているところには利益が還元されずに,とにかく安く売るところ,半額でなんとか仕入れてきて売ってしまうというところは,一切の広告費を掛けず,なんの苦労もしないで,デパートやメーカーが宣伝広告,開発したものを売って,自分の利益にするという構造になっている。これがフリーライド,ただ乗りの典型例でしょう。でも,それはしばらくすると,本体を食い尽くしてしまうわけですよね。(p146)
 かつては,読書そのものが素晴らしい,と言われた。本を読みなさい,と大人は子どもに勧めた。しかし,今の問題はどんな本を読むかです。メディアが普及すると,もうそのメディア自体が悪いとか,そういう言い方はしなくなっていきます。(中略)インターネットが良いとか悪いとかっていう議論は,そのうち,意味をなくすでしょう。(p151)
 私達の危機はあらゆるところにあって,それが一回起こる,ということのためにしておかなければならないことは,実はごまんとある。保険商品を見ても,がん保険からゴルフのホールインワン保険まで,様々なものがありますね。でも,そのごまんとあることへの備えを,用心のために一つひとつやっていると,一切生活ができなくなってしまうかもしれない。そのくらい危機はある。(p185)
 私達は,なんらかの大事件や大事故を,必ず〈人災〉に還元して,誰かの責任を追及する,という形をとりがちです。(中略)しかし,人災という形で今回の「フクシマ」を処理しよう,という発想は,何かより根源的な問題を見逃してしまうようにも思えます。(p185)
 リスク社会のリスクというのは,一度起これば(国家レベル,地球レベルで)壊滅的な被害をもたらす一方で,起こる確率は非常に少ないものです。(中略)ときに〈小さ過ぎて計算不能〉である,という特徴も持っています。(p203)
 今の科学は〈仮説とそのシミュレーション〉を元にしていますから,原理的に回答不可能なものにまで,仮説を立て,コンピュータに計算をさせれば,〈客観的〉とされるなんらかの回答が出てしまう。(中略) さらに科学は,仮説と初期値,あるいはパラメータのとり方によっては,確率1%から99%まで(言葉は悪いですが)いくらでも呈示することができる。それも「科学的根拠に基づいて客観的に」という言葉を付加しながら,です。(p207)
 千年周期の津波について考えてみましょう。千年周期っていうのはどういうことかっていうと,1000年前はちょうど「いいくに作ろう」で鎌倉幕府の時代ですよ。その1000年前を考えてみると,「稲作がはじまった。文字はまだない」という時代です。そうした人たちが被害に遭い,次に源頼朝が被害に遭い,次に私達が被害に遭っている。千年単位ってそのくらいの単位ですよね。文字を持たない人達が源頼朝に対して何ができたのか,源頼朝が私達に対して何ができたか,と考えてみると,1000年後の人に対して私達が何をなせるのかということを考えること自体がいかに無意味であるか,ということになります。 だから将来に対して私達には責任があるとか,未来の子孫に対して責任があると言うとき,1000年後の人達に(単にお題目ではなく)どういう形で責任を取ることができるか,と考えなければならないはずです。 でも,1万年単位で起こる出来事,千年単位で起こる出来事に関しては,私達がどの共同体に対して責任を負っているのか,どの主体に対して責任を持つのか,一体何を守ろうとしなければいけないのか,ということが不明になってしまう。つまり,リスクにさらされるような主体の存在を定義できなくなってしまうという状況になっている。(p208)
 〈利益優先や怠惰のためにこの事故を招いた〉というその言い方は,むしろ,マスコミや一般のステレオタイプなものの見方ではないかと思います。紋切り型の攻め方ですよね。 怠惰でなく利益優先でもなかったなら,大惨事は起こらなかった。もちろんこう考えたいです。しかし,こういう考えは,〈人間や科学に対する万全の信頼〉が前提となっています。人間は科学を使ってしっかりやれば大事故は防げるものだ,という思い込みです。だから,不都合な出来事は,すべてを〈人災〉,誰かの責任と考えたくなります。(中略) 今回の3・11の出来事は,しかし,人間がどんなに頑張ってもダメなことがあるのだ,ということを顕わにしたのだと思います。従前に責任を取ることができるほど人間は完全なものでもなく,そんな能力のあるものでもない,ということが見えたのだと思います。(p210)
 「人類の英知を結集した科学を使えば,地震の予知は可能である」。こんな発想をまだ抱いているとすれば,それは,かつての世界観,人間中心主義(自然は人間の計算と計画の手の内にある),ニュートン的世界観(初期状態と法則さえわかれば,人間は未来永劫にわたるまで世界のあり方を予知することができる)をいまだに抱いているからです。(p214)

 時間の経過とともに,別の感じも私達には芽生えてきてもいます。終わるはずだった日本はなぜかいまだ終わっていないし,また次々とまったく別な問題が生じては,また対処して,なんだかんだやってきている。3・11という未曾有の大惨事も,なんとか受け止め、なんとか処理,対処しながら,どこかそれを少しずつ〈過去の出来事〉という態様に入れ込みつつある。人間が持つ生命エネルギーの常に前に進むあり方には感嘆すべきものがあります。(p232)

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