2015年5月9日土曜日

2015.05.02 吉本隆明 『吉本隆明 最後の贈りもの』

書名 吉本隆明 最後の贈りもの
著者 吉本隆明
発行所 潮出版社
発行年月日 2015.04.20
価格(税別) 1,600円

● 詩歌論。吉本さんの詩や短歌,俳句に対する考えが直截に述べられている。語りを文字にしたものなので,読みやすくもある。
 が,それでもぼくがどれほど理解できたかは,少々以上にわかりかねる。

● 新海均さんが「はじめに」を書いている。茂木健一郎さんとの共著を作ったときの,茂木さんの対応にチクリとコメント。
 多忙な茂木さんが半年を経過しても原稿に手をいれてくれないことを詫びると「いいですよ。気にしないでください。待ちますから。こっちも仕事が減って楽ですから」と、気配りの行き届いた返事をしてくれる。結局,本が出たのは,二〇一二年六月。吉本さんが亡くなってからになってしまった。(p4)
 自分が閑職に異動させられたとき(本人は左遷と受けとっていたようだ)の,吉本さんから励まされたことも書いている。
 二〇〇七年二月,私は編集部から外れ,校閲部に異動となったので,挨拶に行った。すると,「・・・・・・で,体は楽になった? 給料は減った? 変わらない? 変わらないんだったらいいな。俺だったら,自家製の勉強をするな。チャンスですよ。(会社には)知らん振りして・・・・・・。ぜひチャンスを生かしてください」と大きな声で言う。(p6)
● 日本語の音構成についての,吉本さんの指摘。
 子音の第三列音に「あいうえお」をつなげて,それを短縮していくと,「か」今日なら「か」行の,「さ」行なら「さ」行の音自体が表現されます。日本語の五十音はほとんどこれで理解することができます。(中略) そこから大きくはずれるのは「や」行音と「わ」行音です。いくら母音と子音を重ねても,「や」行の音と「わ」行音は出てきません。ということは,「わ」行音と「や」行音はちがう原則にのっとっているに相違ない。それはなにかというと,母音の二つ重ねだと思います。(p27)
 日本語のばあいは,「あいうえお」の母音五音,それに各行の第三列音である「くすつぬふむる」の七音,例外の「や」行音,「わ」行音,「ン」の三音があれば足ります。合わせて十五音で日本語は表現できるということになります。(p29)
● 日本語で書く場合に,外国の流儀を取り入れれば,それだけでグローバルになるか。なるわけがない。
 森(有正)さんのエッセイを読んでいると,なんでここまで入れ込まなきゃいけないんだと感じることがよくあります。あそこまでいったら,「もうフランス人そのままじゃないか,ヨーロッパ人そのものじゃないか」と,ぼくなんかは思います。 じつをいうと,外国の文化や芸術との格闘はそこまでいかなければ意味がないんです。加藤周一のように小手先のテクニックで西洋のまねをしたところで,なんの意味もありません。(p61)
 まず日本語で,日本語の表現でいったら,これが限界じゃないかというところまで行ったら,それはグローバルな意味をもつだろうと思いますね。そうじゃないとグローバルにならないですね。(p124)
 今,グローバル,グローバルって言っているけれども,本当の意味のグローバルはどこにもないよって思います。 地域語同士があるっていうだけです。地域語には,はやっている地域語と,日本語みたいに(中略)(はやっていない)地域語もある。ただこれは,はやりすたりの問題であって,地域語としては同等なんだって,僕なんかはそう思います。(p116)
● その他,以下にいくつか転載。いずれも,オォッと思ったこと。 
 短歌でも俳句でもいいんですけれども,古典の短歌に劣らない短歌をつくる可能性があるとしたら,そこに自分をうち込んだ自己劇化っていうのが必要です。自己の真実に対して自己劇化を加えることが技術的にできれば,多分,匹敵するだろう。(p84)
 地獄という概念で,その人が生まれたことに対しては責任がないはずなのに,そこに責任をもたせたいというのが『往生要集』の一番の要点,理念の最初の要求だと思います。(p96)
 チンパンジーとか,そういうのを研究すると,人間の言葉に一番近い言葉だから,これを研究すると,人間の言葉の本質がだんだんうまく解明できてくるよとかんがえるのと同じことで,それは本当は一番,遠いやり方で,簡単に見当違いをしているっていうふうになる(p122)
 少し前になりますけれども,臨済宗の管長さんが老苦を,老人としての苦しさでもって首吊り自殺をしちゃったことがあるんですよ。(中略) それで,京都で,浄土真宗東本願寺派の集会でおしゃべりに行っていたとき,(中略)(そこにいた坊さんに)聞いたんですよ。 するとその坊さん,(中略)何て言ったかっていうと,「いやあ,臨済宗の管長になるような,修行をして,悟りを開いたそういう人でも,普通の庶民のおかみさんに及ばないっていうことは,あり得ますからね」って言ったんですよ。それで,それだけ言ってもらえれば,僕には,ああ,わかった,わかったと。(p125)
 音楽でいえば,バイオリンとか,ピアノとかで,古典の,モーツァルトならモーツァルトを演奏する人ってあるでしょう。要するにあれは批評なんですよね。批評家なんですよ。(p137)
 歴史というのは,いわばその時代における頂点でかんがえられます。その頂点のところで把らえられやすいし,また,文化の担い手というのは知識的な部分です。知識的な部分というのは,確率的にいえば,わりあいに上層のほうに多いわけです。(p167)
 それから文化,あるいは文学,芸術の世界というのは,一つは場がなければ-場の産物ですからね-進歩していかないという,そういう性質を持っていますから,単独者がどこかで詩あるいは文学をやりというばあいには,単独でじぶん自信がパターン化するまで修練を重ねることをまず前提として必要とします。そのうえで,初めて場を持つものと対等の基盤に立てるわけです。その上でつくられるわけです。だから単独者とか疎外者が,優れた作品を生むのが大変むずかしいというのは,そういうところに一つは依存しています。支配者であれ,支配者に近き存在であれ,文学,芸術とうようなものがえてして,階級的に上層というものにになわれるという宿命を持っていることは大変避けがたいことなんです。(p167)
 例えば、高松塚というのはたまたま壁画がわりあいによく保存されて発掘された。そうすると,高松塚の塚の主,埋められた主はたれであるかというようなことを(中略)一かどの歴史家というものが口角あわを飛ばして論証しようとするわけです。(中略)それらの論証に一様に欠けていることは,高松塚に埋められた主がたれであるかということが,その時代の歴史的な現実の全体からいってどういう意味を持っているんだということがふまえられていないことです。つまり,全体からみれば,そんなことどうだっていいじゃないかということですよ。 (その)自覚なしに,そういう立証にのめり込むということは全くナンセンスだということです。そのナンセンスを素人がやるならいいけれども,歴史学者がそれをやるわけです。そうするとやりきれないです。(p169)

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